ひらいしゅうじろう
天保6年(1835年)~文久3年(1836年)
幕末の志士。諱は義比、号は隈山。
龍馬とは同年生まれで親交が深かった。
土佐勤王党に参加。幹部として活躍する。
小南五郎衛門、武市半平太と共に他藩応接役となる。
勤王党の構想する藩政改革を推進しようと工作をするが、そのことが山内容堂の怒りにふれ、切腹させられた。
天保6年、高知城下井口村に土佐藩郷士・平井伝八の長男として生まれる。同年生まれの龍馬とは親交が深く、収二郎の妹・加尾は龍馬の初恋の人とも言われている。
幼少時より文武を修め、伊勢の朱子学者・斎藤拙堂のもとで学ぶ。
文久元年(1861年)土佐勤王党に参加、幹部に。
文久2年(1862年)には、藩主・山内豊範の上洛に随行。同年8月、小南五郎衛門、武市半平太と共に他藩応接役となり、その能力を大いに活躍させた。
しかし、勤王党の構想する藩政改革を推進しようと工作をし、そのことが山内容堂の怒りにふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)に間崎蒼浪、広瀬健太と共に切腹させられた。
獄中、爪書で辞世を残したことは有名である。
享年については29歳と28歳の2説がある。
『龍馬伝』キャスト宮迫博之
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