近江屋暗殺

近江屋事件は、幕末の慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件のこと。京都見廻組の仕業であるとされる。

経緯

龍馬はそれまで宿舎としていた寺田屋が幕府に目をつけられたので、11月3日に近江屋に移った。11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は近江屋に留まった。
11月15日、夕刻に中岡が近江屋を尋ね、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後から斬られた(1日後に死亡)。このとき「ぎゃあ!!」と大声を上げた山田に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と言い、刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入した。そして龍馬は額を斬られた。龍馬は意識がもうろうとする中、中岡の正体がばれないように中岡のことを「石川、太刀はないか」と変名で呼んだという。その後龍馬は胸など数カ所を斬られついに絶命。中岡はまだ生きており助けを求めるが、2日後に吐き気をもようした後に死亡した。尚、近江屋と土佐藩邸の位置関係は、河原町通りを隔てた真向かい(数メートル)であったが、暗殺当夜に土佐藩邸からは何の救援の手も差し伸べられなかった。

実行者は誰か

当初、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたことなどから、新選組の原田左之助や大石鍬次郎らの仕業とされた。事実、大石鍬次郎は龍馬暗殺の罪で殺されている。また、明治になるまで新撰組の仕業とされていたことや、池田屋事件などもあり、戊辰戦争においては新撰組に対して徹底した粛清が行われている。

この事件に関しては不可解なことが多く、上の今井信郎説のほかにも、全くの俗説である薩摩藩士説や、浅田次郎の『壬生義士伝』のような解釈も行われている。穏便に開国・倒幕を行いたかった海・陸援隊とは逆に、武力による倒幕を目指していた薩摩の仕業と見せたい陰謀説を好む声も根強い。
また、現在においては坂本龍馬の知名度は中岡慎太郎に比べて圧倒的に高いため、「坂本龍馬を殺した犯人は誰か?」という文脈で議論される事が多いが、当時においては坂本龍馬の知名度はあまり高くなかったため、中岡慎太郎が暗殺犯の目的であり、坂本龍馬は単なる巻き添えではなかったのかという説もある。

■京都見廻組実行説
大正時代になって元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。また、勝海舟は幕府上層部の指示であるとも推測している。この見廻組実行説がいわば通説となっており、これに疑問を呈する歴史学者は皆無に等しい。ただし、今井や渡辺の口述に食い違う部分(刺客の人数構成、現場に置き忘れた鞘の持ち主など)があるため、主に作家を中心に色々な異説が唱えられている状況である。なお現場に駆けつけ中岡慎太郎を見舞った谷干城は京都見廻組説を信じていなかったという。

■新選組犯行説
龍馬暗殺当時の現場に残された鞘などの物証や、3日後に暗殺された伊東甲子太郎の同志らの証言から新選組の原田左之助によるものと信じられていたが、刀傷は左利きによるものであると言う説もある。これを採用するなら左利きで、北辰一刀流の達人である龍馬を殺害できるだけの実力のある人物となると、斎藤一という説もある。しかし現在では、新選組犯行説を支持する研究者はほとんどいない(斉藤一の新撰組復帰時期は諸説あるが、浅田次郎の壬生義士伝の中では、御陵衛士(高台寺党)としての斉藤説を唱えている。しかしながら、斎藤の左利き説自体が史実である可能性は低い)。

■薩摩藩陰謀説
大政奉還以降、龍馬は幕府に対する態度を軟化させ、徳川慶喜を含めた諸侯会議による新政府の設立に傾いていたともいわれる。武力倒幕を目指していた西郷隆盛、大久保利通らが、こうした龍馬の動きを看過できなくなり、故意に幕府側に龍馬の所在を漏らしたとする説。徳川慶喜の処遇をめぐっては、西郷隆盛と坂本龍馬では意見の相違があったことは明らかになっている。維新クーデターによる大政奉還派の暗殺説は、佐々木多門の書状や近江屋の女中たちの証言などの資料をもとにしている。また、この説は大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあり、両者は相容れない路線ではなかったとする学説を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいるものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情である。

■紀州藩説
紀州藩所有の蒸気船「明光丸」と、海援隊が運航する「いろは丸」が衝突し、いろは丸は宇和島沖に沈んだ。(慶応3年4月23日)
紀州藩と龍馬引き入る海援隊は、賠償をめぐって激しく交渉を続けていた。龍馬は人脈や交渉力、果ては繁華街で「船を沈めた紀州藩はつぐないをせよ」と歌を流行らせその包囲を固め、交渉勝利のためにあらゆる智恵をつかって交渉に当たっていた。その分が悪くなった紀州藩が、龍馬を暗殺したという説である。しかし、龍馬暗殺の直後、紀州藩は7万両の賠償に応じたのでした。

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