千葉道場

千葉道場関連の情報・人物を紹介。

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)千葉周作が創始した、北辰夢想流と一刀流を合わせた古流武道の流派。
等級を「初目録」「中目録免許」「大目録皆伝」の三段階に簡略化するなど、合理的なところが北辰一刀流の特徴。また、隣接する塾で儒学を学ぶものも多かった。
現在の剣道の型などの基礎をつくったのも、この流派とも言える。
文政5年(1822年)に、千葉周作により日本橋品川町に道場「玄武館」が開かれた。この道場は幕末の江戸三大道場のひとつに数えられるほどに成長した。
ちなみに、他の三大道場には神道無念流・斎藤弥九郎の「練兵館」、鏡新明智流・桃井春蔵の「士学館」。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と評された。
後に千葉周作の弟・千葉定吉が京橋桶町に開いた道場は桶町千葉と呼ばれた。
北辰一刀流の門下には、清河八郎、山岡鉄舟、山南敬助などがいたと言われている。坂本龍馬は千葉定吉のもとで剣術修行を受けた。

千葉定吉(ちばさだきち)文化9年(1812年) – 明治12年(1879年)12月5日
江戸時代後期の剣客。北辰一刀流の開祖・千葉周作の弟。門下に坂本龍馬や伊藤甲子太郎など。
玄武館の創設・運営には、定吉も助力した。その後、京橋桶町に道場を開き「桶町千葉」と呼ばれた。
兄よりは少し劣るが剣の腕は高く、嘉永6年(1853年)には鳥取藩の江戸屋敷の剣術師範となった。
安政5年(1858年)龍馬は定吉から薙刀の目録である「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられた。
明治12年(1879年)12月5日に死去。
『龍馬伝』キャスト/里見浩太朗

千葉重太郎(ちばじゅうたろう)文政7年3月1日(1824年3月31日) – 明治18年(1885年)5月7日
諱は一胤。武蔵国江戸杉之森出身の剣客。後に鳥取藩士に。
桶町千葉道場を開いた千葉定吉の長男。龍馬とは門人であり友人。
龍馬が入門した嘉永6年(1853年)に、父である定吉が鳥取藩の江戸屋敷の剣術師範となったため、道場を運営を任されることに。そのことから実際に龍馬に剣術を指導したのは重太郎だったとも言われている。万延元年には父と同様鳥取藩に仕えるようになった。
重太郎は坂本龍馬と共に勝海舟を暗殺しようとして失敗。逆に勝の思想や考えに影響を受けて、入門してしまった。
その後は主に鳥取藩士として活動。長州征伐や戊辰戦争にも参戦した。
明治4年(1871年)に家督を相続した。維新後は、開拓使や京都府などに出仕。
明治18年(1885年)5月7日に62歳で死去。
『龍馬伝』キャスト/渡辺いっけい

千葉佐那(ちばさな)天保9年(1838年) – 明治29年(1896年)10月15日
千葉さな子とも呼ばれる。
桶町千葉道場を開いた千葉定吉の娘。初名は乙女。龍馬と婚約していたと言われている。
北辰一刀流小太刀免許皆伝を持ち、長刀師範も務めた。「鬼小町」と呼ばれた。
龍馬が姉・乙女に宛てた手紙いわく、馬に乗り、剣も強くて、長刀も出でき、力は普通の男よりも強い。十三絃の琴を弾き、絵も描き、物静かな女性。顔形は平井加尾より少しいいとのこと。
龍馬が死んだ後も独身を貫いた。
維新後は、学習院女子部の舎監を勤めた。後に千葉灸治院を開いた。
明治29年死去。
無縁仏になるところであったが、交流のあった小田切謙明夫妻により、山梨県にある清運寺に分骨された。墓石には坂本龍馬室と刻まれている。
『龍馬伝』キャスト/貫地谷しほり