龍馬人物伝

坂本龍馬の生涯

坂本龍馬(天保六年11月15日-慶応3年11月15日)
天保六年(1835年)、土佐藩士(郷士)坂本八平直足の次男として誕生。(誕生日については、他説もありますが通説は11月15日となっています。)またこの日は龍馬が暗殺された日でもあります。幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩を脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成し、薩長連合の斡旋や大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動していました。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)坂本龍馬は風邪を引いて河原町の蛸薬師で醤油商を営む近江屋新助宅母屋の二階にいたとされています。
当日は陸援隊の中岡慎太郎や土佐藩士の岡本健三郎、画家の淡海槐堂などが訪問。中岡はそのまま龍馬と話していたが、十津川郷士と名乗る男達数人に切られた。
龍馬達は近江屋の人間が入ってきたものと油断しており、帯刀していなかった。龍馬はまず額を深く斬られ、奮戦するもののそれが原因ですぐに死亡。
中岡も重傷を負うが、数日間は生存して意識もあり、事件の証言を残した。
毎年この日には、高知市上町の龍馬の生家前で、全国から集まった龍馬ファンによって「誕生祭」が開かれています。

坂本龍馬人生年表

天保6
(1835)
1歳 11月15日、郷土・坂本長兵衛の次男として、高知城下本庁筋一丁目に誕生
嘉永元
(1848)
14歳 剣術の小栗流、日根野道場に入門
嘉永6
(1853)
19歳 剣術修行のため江戸遊学
千葉定吉道場へ入門
ペリー来航で土佐藩の臨時御用に徴用される
安政6
(1859)
25歳 9月20日、砲術家・徳弘幸蔵に入門
文久元
(1861)
27歳 3月、永福寺門前にて井口事件が起きる
8月、土佐勤王党結成され、翌月、加盟する
文久2
(1862)
28歳 1月15日、長州の久坂玄瑞を訪れる
3月24、沢村惣之丞と共に土佐藩を脱藩する
10月、千葉道場の千葉重太郎と共に軍艦奉行並の勝海舟宅を訪れる
文久3
(1863)
29歳 1月8日、勝海舟の私塾に同志とともに入門
4月24日、神戸海軍操練所の設立が決定、私塾の開設も認められる
元治元
(1864)
30歳 2月9日、勝海舟より外国連合艦の下関砲撃調停の命を受け、翌日、同志らとともに長崎に向かう
5月頃、攘夷派志士らを蝦夷地に移住させ開拓事業を唱える。
この頃、医師・楢崎将作の長女・お龍と知り合う
6月5日、池田屋事件で同志の望月亀弥太が自刃する
8月1日、お龍を伏見の船宿寺田屋に預ける。
このころ、お龍と内祝言をあげる。
8月14日、勝の使者として京都で西郷隆盛と面会する
慶応元
(1865)
31歳 閏5月6日、木戸孝允と会見し、薩長和解を説く
閏5月10日、薩摩の西郷は木戸との会談予定を破り、そのまま上京する
閏5月29日、西郷説得のため、中岡と上京する。
この頃、長崎に亀山社中を創立し商業活動をはじめる
慶応2
(1866)
32歳 1月22日、薩長同盟が成立する
1月24日、午前3時頃、寺田屋で三吉慎蔵と会談中、幕吏に急襲される
お龍が気づき、急を知らせ、虎口を脱す(寺田屋事件
慶応3
(1867)
33歳 4月上旬、社中を土佐海援隊に改編。隊長となる
4月23日、いろは丸が紀州の明光丸と衝突し、沈没する
6月15日、長岡に「船中八策」を起草させ、土佐藩の後藤象二郎に示す
6月26日、薩土芸・三藩による王政復古について意見が一致、「約定書」成る
10月14日、将軍慶喜、大政奉還
11月1日、越前の松平春獄に謁す。
この頃、「新政府網領八策」を著す
11月15日、近江屋で何者かに襲われ、翌日没す

龍馬の身分■郷士の方が裕福
土佐には土佐藩に使える上士と、そうではない下士に分かれる。
下士の中も細かく分かれており、龍馬は下士の中の郷士という身分だった。 
当然、身分が上で、藩士である上士の方が豊かであるかに思われますが、上士には「半地借り上げ」という納税システムがあり、例え100石の石高であっても半地が土佐藩に借り上げられ、50石で生活しないといけなかった。
その上、藩士としての仕事もあったので、大変、ストレスな生活をおくっていた。
しかし、郷士には「半地借り上げ」などなかったので、石高がそのまま使えました。坂本家は、170石ありましたので、裕福な生活をしていたと思われます。
また、郷士の仕事は、軍事での出兵ですので、この江戸時代ではほとんど何もせず、ブラブラとのんびりしていた生活をおくっていたようです。

■坂本家は山内家の御廟所番
御廟所番とは墓守、墓の番人のこと。坂本家は藩から山内家の墓所管理のお役目をうけていました。

■身分について
郷士の方が裕福ではありましたが、やはり身分のちがいは日常生活の何気ないところに現れます。
たとえば、道などで、上士と郷士がすれ違う時、郷士はおじぎをしないといけませんでした。また、重老以上に会った時はひざまずいて頭を下げなくてはいけませんでした。
そして何より、政治の世界に、郷士が関わる事はありませんでした。
いくら裕福な暮らしが出来ても、日本が大変な時に政治に参加できないというのは、果敢な青年時代、とても苦しかったのではないでしょうか?これが、土佐勤王党などの結成に繋がっていったのではないでしょうか?

『龍馬伝』キャスト福山雅治