勝海舟

勝海舟銅像

かつかいしゅう
1823年-1899年

江戸時代末期~明治期にかけての幕臣、政治家

位階勲等は正二位勲一等伯爵。

1860年日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに使節が派遣された時、咸臨丸を指揮、日本人初の太平洋横断航海に成功。幕臣でありながら広い視野を持ち、坂本龍馬、西郷隆盛らを教育、戊辰戦争で西郷隆盛と会見し江戸城の無血開城に貢献しました。

文政6年(1823年)、江戸本所亀沢町の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した。
曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、 米山検校を名乗った。銀一の子・平蔵は、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三 男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年(1575年)以来の御家人であり、系譜 上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が宝暦2年(1752年)に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。

幼少時、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。
生家の男谷家で7歳まで過ごしたのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区)で暮らした。

剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。

蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。弘化3年(1846年)には住居も本所から赤坂田町に移る。

『龍馬伝』キャスト武田鉄矢