幕末の四賢侯

幕末の四賢侯
(ばくまつのしけんこう)

幕末期に活躍した下記の4人の大名を「幕末の四賢侯」と呼ぶ。
・越前福井藩第16代藩主・松平春獄(松平慶永)
・宇和島藩第8代藩主・伊達宗城
・土佐藩第15代藩主・山内容堂(山内豊信)
・薩摩藩第11代藩主・島津斉彬

藩政だけでなく幕政にも積極的に参加した。将軍継嗣問題では一橋慶喜を推した。しかし、対立していた井伊直弼が大老となり安政の大獄が始まり、将軍は井伊の推す徳川慶福に決まり、第14代将軍徳川家茂が誕生することとなった。四賢侯らは謹慎の身となる。
その後、桜田門外の変が起こり謹慎は解かれた。隠居の身でありながらも、彼らの藩政・幕政への影響力は健在であった。
維新後、新政府の要職に就くも、彼らは公武合体を目指していたため志士たちと政治観が異なったため、やがて職を辞した。

松平春獄(まつだいらしゅんがく)文政11年9月2日(1828年10月10 ) – 明治23年6月2日(1890年6月2日)
第16代越前福井藩主。明治時代は政治家としても活動した。
諱は慶永(よしなが)。春獄は号。田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男として生まれる。
天保9年に第15代藩主・松平斉善の養子となる。斉善が死去すると11歳で16代藩主となっった。中根雪江らが補佐としてつく。
その後、藩政改革・幕政改革に取り組む。
嘉永6年(1853年)のペリー来航の際、春獄は攘夷派で海防強化などを訴えていたが、後に阿部正弘との交流などを経て開国派へと転じた。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を擁立、徳川慶福を推す井伊直弼と対立。後に大老となった井伊により安瀬の大獄が始まり、謹慎の身となる。桜田門外の変により井伊が暗殺されると、やがて謹慎も解かれ幕政に復帰した。
維新後、新政府の要職に就くがやがて辞職した。
『龍馬伝』キャスト/夏八木勲

伊達宗城(だてむねなり)文政元年8月1日(1818年9月1日) – 明治25年12月20日(1892年12月20日)
宇和島藩第8代藩主。幼名・亀三郎。山口相模守直勝の子。
文政12年(1829年)に宇和島藩主・伊達宗紀の養子となる。天保15年(1844年)には、宗紀が隠居したことにより藩主となる。
殖産興業を中心に藩政改革を進めていった。幕政にも積極的に関わる。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を推した。対立していた井伊が後に大老となり安瀬の大獄が始まると、謹慎・隠居の身となった。
しかし、隠居したものの宗城はその後も藩政に影響を与えるなど発言力は持っていた。
その後島津久光らと共に、公武合体を推進した。明治維新後、民部卿などを務めた。
明治25年(1892年)病没。

山内容堂(やまうちようどう)文政10年10月9日(1827年11月27日 ) – 明治5年6月21日(1872年7月26日)
諱は豊信(とよしげ)。土佐藩第15代藩主。容堂は隠居後の号。
文政10年(1827年)、高知城下にある山内家分家南屋敷で山内豊著の長男として誕生。
父の跡を継ぐはずだったが、第13代藩主・豊熈が急死、そしてその跡を継いだ第14代藩主・豊惇までもが急死。
豊惇には弟がいたが、当時まだ3歳であったため22歳の豊信が藩主に就任することになった。
藩主就任後は藩政改革を行い、吉田東洋を抜擢するなどした。
幕政にも関わっており、将軍継嗣問題を巡っては大老・井伊直弼と対立し、その後井伊の弾圧(安政の大獄)により隠居、その後謹慎の身となった。
後藤象二郎の進言により、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白した。
維新後、内国事務総裁の任に就くが明治2年(1869年)に辞職。
『龍馬伝』キャスト/近藤正臣
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島津斉彬(しまづなりあきら)文化6 年3月14日(1809年4 月28日)‐ 安政5年7 月16日(1858年8 月24日)
薩摩藩第11代藩主。第10代藩主・島津斉興の長男として江戸の薩摩藩邸に生まれた。
お由羅騒動と呼ばれるお家騒動により、藩主となった時には40歳を超えていた。
富国強兵に力を注ぐなど、藩政改革を進めていった。
ジョン万次郎(中浜万次郎)を直接取調べをし、西洋事情などの異国の情報を万次郎から聞いた。
斉彬は幕政にも積極的に関わった。老中・阿部正弘と共に幕政改革を進めた。
将軍継嗣問題では一橋慶喜を推すが、後に大老となった井伊の弾圧(安政の大獄)により将軍は慶福に決定し、斉彬らは敗れることとなった。
それを受け斉彬は上洛を計画し準備をしていたが、その最中没してしまった。