龍馬の婚約者“さな”独身説覆る!

坂本龍馬の婚約者で知られる“千葉さな”は今まで生涯独身を貫いたとされてきましたが、龍馬の暗殺後、元鳥取藩士と結婚していたとする明治時代の新聞記事が、3日までに見つかりました。旧鳥取藩士の文書から藩士の実在が確認されるなど、発見した歴史研究家あさくらゆうさんは「記事はかなり正確」としている。

さなは「北辰一刀流」を開いた千葉周作の弟、定吉の娘で、江戸の剣術修行で千葉一門に入門した龍馬は、さなと知り合い婚約したとされています。
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記事は、明治3年(18741年)に横浜で創刊された毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)が1903年8~11月に連載した「千葉の名灸(きゅう)」。さなが晩年、千住(東京都足立区)で営んだきゅう治院の来歴などを描く内容で、さなの親族に取材して書かれた。10月4~5日の記事によると、明治6年に横浜に移り住んださなが、定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士山口菊次郎から求婚され、竜馬の七回忌も済んだことから受諾した。

しかし家格の低さもあり定吉が反対。「おまえの命はかつて龍馬の霊前にささげようとしたものではなかったのか」などと怒って、さなを切ろうとしたため、近くの商家が仲裁に入り、翌年7月に結婚。

菊次郎の身持ちの悪さなどから、10年たたず離縁、千住に移り住み亡くなるまで再婚しなかった。

あさくらさんは鳥取藩主の伝記などから菊次郎の名前や当時、横浜在住だったことを割り出し、横浜市史の関連文書から商家の存在を確認。さなの横浜時代の戸籍などは関東大震災や戦災で焼失している。さなの関係資料を所蔵する足立区立郷土博物館の学芸員多田文夫さんは「非常に貴重な記事だ。しっかりした取材に基づいて書かれ、登場人物の実在も確認されており、信ぴょう性が高い」と話している。

記事を見つけ、分析したあさくらゆうさんは「結婚暦があろうが、さなが龍馬を愛していた事実は変わらない。だからこそ、晩年は龍馬のいいなずけと自ら語り続けたのだろう」と話している。