坂本家の墓所

坂本家の墓所_写真

施設情報丹中山にある坂本家の墓所です。元々は二ヵ所に分かれていましたが、移転・改葬され、公園として整備されました。
龍馬の両親や姉・乙女らが眠っています。

「坂本家墓所」は、整備基本構想をまとめられた「坂本家墓所整備構想委員会」の委員の皆様をはじめ、丹中山の開発により土佐の歴史を築いた多数の先人の墓石が消滅することを憂い、十数年間にわたって保存・収集活動を続けた歴史写真家前田秀徳氏など多くの市民の献身的な努力によって完成しました。

◆柴田栄
龍馬の一番上の姉。龍馬が脱藩した時に、刀を授けたといわれています。しかし、刀は、同じく姉の乙女に渡されたのではとの説も有力で、実際は誰かは分っていない。
◆坂本冨太郎
龍馬の兄、権平の長男。しかし、この子が5歳の時に亡くなってしまいます。 権平は龍馬と20歳離れており、自分の次に坂本家を継ぐように、再三、龍馬に手紙を出しております。
それに対し、龍馬は「40歳になるまで、自由にさせてもらいたい。その後は土佐に帰るから。」と言っており、兄もそれまでは現役を続けるつもりでいたようです。
そんな中、龍馬が32歳で暗殺されたので、妹・ちずの次男を養子にし、坂本家を継がせた。 ちずの長男は、龍馬の養子となり、龍馬の坂本家を継いでいます。

墓所案内

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田中良助旧邸資料館

田中良助旧邸資料館_写真

施設情報田中良助さんは、坂本家の所有していた山(坂本山)の管理人さんでした。龍馬もよく訪れていたようです。
田中邸からは龍馬が田中に借金した借用書が発見されたそうです。借用書があるという事は、お金は返してないということですね。
田中はこの借用書が誰かに見つかると、龍馬に迷惑がかかると睨み、ふすまの張り紙の中に隠していたそうです。
また、田中邸のすぐ近くに、「八畳岩」と言われる大きな岩があります。
晴れていれば、この八畳岩から太平洋が見えます。龍馬もよくここで、田中良助さんとお酒を飲んだそうです。
最後にこの場所を訪れたのは27歳秋10月。脱藩が翌年3月のことである。

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岡田以蔵の墓

岡田以蔵の墓_写真

施設情報足軽といわれることもあるが、岡田家は郷士です。
また、足軽に応募したのではともいわれますが、郷士が身分下の足軽に応募するのは考えにくいのではないでしょうか。
別名「人斬り以蔵」といわれ、京都では多くの人を切りました。
京都の先斗町から木屋町に出る道は幅が狭く、先斗町で酒を飲んだ武士たちはこの道を一列になって歩いた、そこを田中新兵衛が前に回り、後ろから以蔵が回り挟み撃ちで多くの人を切ったという。
以蔵の墓には献花が耐えません。どこか寂しい生き方の以蔵に心を寄せる人が多いのも事実です。

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和霊神社

和霊神社_写真

施設情報宇和島から分けてきた商売の神様。坂本家の守り神の神社である。
龍馬は脱藩の前にここに立ち寄り、脱藩の報告をしたという。
また、この神社には坂本家が奉納した刀がある。この刀は鎌倉時代のもので、二尺一寸の名刀である。
龍馬も二尺一寸から三寸の刀を好んだといわれ、もしかしたら、この刀が脱藩の時の刀かもしれない、とも思いをめぐらせれる。
この神社の氏子さんが守っていましたが、その刀から夜中、女性のすすり泣きが聞こえてくるとのことで、現在は坂本龍馬記念館に所蔵されています。

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武市半平太邸と墓

武市半平太(瑞山)邸と墓_写真

施設情報大久保利通の才能と、西郷隆盛の人柄を合わせ持った人物と言われる。相当に、才能あふれる人だった。
切腹の際には三重に腹を切ったそうです。精神力も相当のものだったようです。
名前についている「小楯」というのは、「日本の盾になる」との意味が込められているそうです。
半平太に使える人の中には、相当優秀な人物も多くおり、武市が優れた人物であったことが伺えます。
龍馬は半平太のことを「アギ」と呼び、本当に兄弟のように共に戦った仲間であったろう。
しかし、龍馬は暗殺、半平太は切腹。二つの道をそれぞれ行き、数奇な運命をたどる事になったのです。

旧邸の前山に瑞山神社があり、その上が墓所となっている。
獄中の夫のみを案じた夫人武市冨の墓と並んで「武市半平太小楯」の墓石がある。

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